事件9:はじめての仕事

司法書士の仕事は、事務所にいるだけではこない。

仕事が欲しいならば、金融機関に挨拶回りに行けばよい、と先輩の司法書士から聞いていたので、
左近寺勲も早速、銀行に挨拶に行った。

もちろん、そのときは初めてなので、仕事はもらえない。
開業して1週間ぐらいたって、またいくつかの銀行に挨拶回りに行った。

その中の一つ、江須銀行に行って、
「今度、新しく開業しました司法書士の左近寺勲と申します。よろしくお願いいたします」

というと、支店長の奥道康之が出てきて、
「これは、新しい先生ですか。よーく来られました」

左近寺に深々と頭を下げた。

彼は、こんなに偉い支店長に頭を下げられたことはなかったので、どのように答えていいのか、
わからないでいると、奥道が、
「左近寺先生は、もう仕事はされましたか」
と聞いてくる。

開業して1週間だから、まだ仕事があるはずはない。

「いえ、まだ仕事はありません」
と答えると、

「そうですか。それじゃ、うちで第1号の仕事をあげましょう。第1号の仕事は、いい思い出になると
思いますよ」

そう言うと、
「みんな、新しい先生と名刺交換をしなさい」
と言って、融資係に命令する。

融資係は、5、6人いたが、支店長の命令だから、従わざるをえない。

「融資係りの小泉雄一です」

「融資係りの中曽根進です」

と言って、みんな左近寺に頭を下げて、名刺交換しに来る。

彼も慣れない手つきで
「司法書士の左近寺です」
と言って名刺を交換した。

名刺交換が終わると、奥の応接セットに通されて、コーヒーをいれてもらった。

「先生、苦労なされたでしょう。試験は大変だったでしょう」
支店長の奥道が、合向かいの席に座って話しかけてくる。

「でも、先生はすごいですね。あんな難しい試験に合格されたんですから、さぞ、勉強されたんでしょう」
奥道は、なおも聞いてくる。

「いえ、たったの4回受けただけなんです」

「いや、4回といえばすごいですよ。やっぱり、先生は頭がいいんですね」

「いえ、そんなことはありません」

奥道は、なかなかおだてるのがうまい。
「これから、先生に記念に第1号の仕事をあげます。実務では一番難しい抹消の登記というものです」

「はい、ありがとうございます」
左近寺は、何も知らないまま頭を下げた。

「ところで、先生。先生の事務所の電気代とか電話代がありますね。その公共料金の引き落としを、
ぜひうちの銀行でやって頂きたいんですが」

左近寺は、先生、先生とおだてられていい気になっていたので、
「いいですよ、いいですよ。こんないい銀行ならなんでもやりましょう」
そう言って、その場で、電気と電話と水道の公共料金の引落契約書にサインをしてしまった。

帰り際、奥道が,
「先生、必ず抹消の登記をやりますので、よろしくお願いいたします」
また、深々と頭を下げてきた。

事務所に帰ってきてから、左近寺はうれしくってたまらなかった。

「江須市にこんないい銀行があるなんて、最初に挨拶回りに行くんだった」
と、少し悔やまれたが、

「でも、第1号の仕事をくれる、と言っていた。これで仕事ができる」
うれしくて、たまらなかった。

それから1週間経ったが、江須銀行からは何の連絡もない。

さらに1週間過ぎたが、連絡は何もない。

「どうしたのかな。あれほど仕事をくれると言っていたのに。もしかしたら、わたしのことを忘れて
しまったのかもしれない。そうだ。わたしの方からまた行ってみよう」

左近寺は、自分の方から銀行に行った。

すると、融資係りの小泉雄一が,
「まだ、ないんですよ」

あっさりと断ってきた。

彼は、このとき、はっと思った。

もしかしたら、左近寺は先生、先生と言われて、いい気にさせられただけだったのではないだろうか。
そして、その場で、公共料金の引き落とし契約書にサインまでしてしまった。

そのあげくの果ては、抹消の登記1つもらえない。
なんと、自分は世間知らずなんだ。

考えてみれば、開業して間もない新人の司法書士に仕事を依頼する銀行はあるはずはない、
結局、左近寺はうまいように利用されてしまったのだ。

そう思うと、左近寺は川に身を投げて死んでしまいたいような気分になってしまった。
そんな落胆の日が2、3日続いたが、ある日、左近寺に電話がかかってきた。

「先生に、抹消の登記を1件お願いしたいんですが」
江須銀行からだ。

やっぱり、江須銀行は、左近寺を見捨てていなかった。彼は、さっそく抹消の書類を預りに行った。

抹消の書類なんて、抵当権設定の識別情報と委任状だけなのだが、それがそのときの彼には、
非常に重要な書類に思えた。

左近寺は、その書類を大事そうに預かってくると、いまでは、20分もあればできてしまう申請書を、
1日がかりで仕上げた。

そして、何度も、何度も見直して法務局に持っていった。
法務局に持っていって、登記係りに渡そうとしたが、それを引っ込めて、また見直す。

そして、また渡そうとして引っ込める。
「字は間違っていないだろうか。委任状はちゃんと付いているだろうか」

と、調べて、また、登記係りに渡そうとする。

そして、また、引っ込めては調べる。
そんなことを何度か繰り返してから、やっと勇気を出して登記係りに渡した。

渡してしまってから、急に不安がこみあげてきた。

“補正にはならないだろうか。取下げにはならないだろうか”

“もし取下げになったら、どうしよう”

“腹を切って、お詫びしなければならないんだろうか“

彼は心配で、心配でたまらなかった。

それから、数日後、無事、登記が完了した。
左近寺は、うれしかった。自分が初めてした申請が登記簿に記入された。

彼は、日本の政治が変わるような大仕事をしたような気分で、登記完了証を江須銀行に持って
いきました。

登記完了証を、銀行の人に渡すときも、なんともいえないうれしさでいっぱいだった。
それから、その抹消の依頼を受けた次の日にも、また江須銀行の融資係りから電話があった。

「先生に、抹消の登記を2件依頼したいんですが。そのうち1つは、住所移転をしているので住所の
変更をしてほしいんですが」

うれしかった。
きのうの抹消と合わせて、全部で4件。この4件が、左近寺が初めてした仕事ということになる。

支店長の奥道も言っていたように、初めての仕事というのは、非常に印象深いものだ。
当時のことは、いい思い出になって、今でも新鮮に思い出すことができる。