事件3:マイホームの甘酸っぱい罠

左近寺勲が司法書士を開業して、半年ほど経った頃だった。江須市内にある敬愛銀行の
融資担当者から電話がかかってきた。

「左近寺先生、4月1日にうちの銀行でマイホームの取引があるんですが、都合はどうでしょうか」

そう聞かれて、左近寺は手帳を出して予定を調べる。
「その日は、ちょうど空いております」

「それじゃ、先生に立ち会ってもらいたいんですが……」

「はい、わかりました」

立会のときは、人、物、意思の確認が重要となる。誰が、誰からどのような不動産を買うのか、
詳しく知るために、前もって銀行から必要な書類を預かる必要がある。

その取引は、担保権の抹消はなく、名義の移転と抵当権の設定だけだったが、土地付き建物を
マイホームとして購入するというものだった。

取引の日まで約1週間あったが、左近寺は土地と建物の登記事項証明書を取り、立会説明書を
作って当日に備えた。

いよいよ、立会の当日になった。左近寺は、なるべく早いほうが落ち着くと考え、約30分前に
取引場所である銀行へ行った。誰も来ていなかった。

少し待っていると、まず売主の黒石高郎がきた。彼は仕事の都合上、海外に勤務が決まり、
新築したばかりの住宅を売りに出していた。

そして、約束の時間近くになると、買主が不動産屋とそろって現れた。買主は佐々山京治という男で、
人材派遣会社の社長だった。彼は案外若くて、どちらかといえばやせているような体つきの
人物だった。

その買主である佐々山は、部屋に入ってくるなり、じっと左近寺の顔を見つめた。穴のあくほど
じっと見つめている。左近寺も、佐々山の顔を見つめ返した。

ところで、左近寺は江須市の法律専門学校で、司法書士になる前から法律学の授業を担当している。
彼は教えるということが好きで、専門学校に教えに行く日が楽しみだった。

事務所から学校まで1時間ほどかかるが、その時間が短く感じられる。授業をしているときも、
自分の授業に没頭できるのでこれも楽しいものだった。

その日も、授業が終わって充実した気分で、学校から帰途についた。車がちょうど貝殻町に
さしかかたときだった。 後ろの車が、ライトを上向きにして走ってくる。

左近寺は、その光がバックミラーに反射するので、まぶしくてしかたがなかった。後ろの車を前に
やってしまおうと思い、止まるつもりでウインカーを左に出した。

すると、後ろの車もそれで気づいたらしく、ライトを下向きにした。もう止まる必要はないな、と
彼が思っていると、急に後ろの車が左近寺の横に来て、さらに彼の前に来て止まった。

こういう状態になると、彼の車も止まらざるをえない。

これはただ事ではないな、と左近寺は瞬間、思った。案の定、前の車からステテコをはいて、
髪をオールバックにした一見してやくざっぽい若い男が下りて来た。

左近寺は、“これはまずい、やくざだ。逆らわないほうがよいな”と思った。

その男は、車のそばまでくると、
「おい、なんて、運転してるんだ」
やはり、彼に因縁をつけてきた。

「道が混んでいたもので……」
彼は下手に出た。

「道なんか、混んでいねえじゃないか。ウインカーをチカチカ出しやがって、目障りでしょうがねえ」

「すいません。ちょっと、手が滑ってしまったもので……」
さらに下手に出た。

「これから、気をつけろ!」

男がそう言った瞬間、左近寺は右のほおに激しい痛みを感じた。その男が、げんこつで彼のほお
を殴ったのだ。

「あっ、暴力だ」と思った瞬間、男は自分の車に乗って走り去っていった。

左近寺もしばらくの間追いかけたが、夜の暗い道で細い路地を曲がるものだからついに
見失ってしまった。

左近寺は、憤慨した。この民主主義の世の中において、暴力が許されてたまるものか。相手の
車のナンバーをかすかに憶えているので、警察に訴えようかと思った。

少なくても自分は法律を扱っている人間だ。違法な行為は、法で処罰してもらわなくてはならない。
真剣にそう思った。

しかし、一方、警察に訴えると左近寺のほうも呼び出されて、時間がとられてしまい、仕事に差し支える
ことになる。このくらいのことで、業務に支障があるならばがまんしてしまおう、という気にもなった。

結局、このことは判然としないままそのままになってしまった。

あのとき、左近寺を殴った男がいま、取引の場に買い主として目の前に現れているのだ。佐々山も
彼を殴ったことに気づいたらしく、じっと見つめている。左近寺も気づいた。

しかし、左近寺は知らん振りをしていた。今は、この取引を無事済ませるのが先決だと思った。それに、
今そのことに触れてみても、もう済んでしまったことで何の解決にもならないと考えた。

佐々山は左近寺を殴ったという弱みもあるので、名前がわかると、
「おい、左近寺、しっかりやれよ」
などと、呼び付けにしている。

しかし、左近寺はあくまでも丁重に接した。

それでもなお、佐々山は取引の間、
「おい、左近寺、おまえは司法書士を何年やっているんだ」
などと、荒々しい言葉をかけてくる。

「2、3年、やっております」
左近寺は、適当に答えておいた。

「おい、左近寺、司法書士になるまえに、何をやっていたんだ」
さらに、聞いてくる。

「専門学校で教えていました」

「何ていう学校だ」

「江須市の法律専門学校というところです」

このような調子で、話が進んでいく。

しかし、あくまでも取引の場なので、左近寺は司法書士としての自覚と誇りをもち、登記に必要な
書類を預かって丁寧に説明をした。

すると、その場に立ち会っていた不動産屋が、
「よく説明をしてくれる司法書士さんだね」
と、ほめ言葉をいった。

取引の場で、書類だけ預かって説明をあまりしない司法書士が多いらしい。
そして、最後まで丁寧に接したこともあって、佐々山はだんだんと左近寺を信頼してきたようだ。
取引が終わると、
「よろしく頼むぜ」
と声をかけてきたが、その言葉には信頼の気持ちがこもっていた。

取引が無事すんで、それから2、3ヶ月経ってから、佐々山から電話がかかってきた。

「うちの有限会社の取締役が1人辞めるんだけれど、その変更の登記をおまえにやってもらいたい」
そういう仕事の依頼の電話だった。

左近寺は、さっそく書類を受け取りにいった。会社に行くと、佐々山が、
「おまえは江須市一番の司法書士なんだろう。だからおまえに頼むんだ」
と言って、書類を渡した。

最初は左近寺を殴った男が、最後は彼を信頼してくれて仕事まで頼むようになった。

左近寺はあのとき警察に届けなかったことが、最後はよい結果となったと思っている。もし警察に
届けていれば取引は成立しなかったであろうし、役員変更の仕事も頼まれなかっただろう。

彼はこの事件を思い出すたび、司法書士の仕事を忠実に行なってよかったと思っている。この事件は
何か心が暖まるよい思い出となって、左近寺の心の中にいつまでも残っている。