事件10:司法書士になる前の事件

平成**年1月4日、午後3時ごろ、左近寺勲が書店から戻ってくると、路上に駐車してあった
彼の車のフロントガラスに小さな紙片が挟まれてあった。

そこには、「当て逃げ」という文字と相手方の車両ナンバーゐ0157という数字が書いてあった。
よく見ると、後部の左側バンパーに衝突した傷がついていた。損傷は大したことはなかった。

相手方の車はすでになく、左近寺はどうしたものかと迷ったが、結局その紙片を警察署に
持っていくことにした。

現場はタクシー乗り場になっており、その紙片は事故を目撃した転手が挟んだものだった。

警察署に行って聞いてみると、「当て逃げ」は、重大な道路交通法違反であるらしい。
車両ナンバーから直ちに所有者を割出し、呼び出して厳重に注意をするという。

数日後、再び警察署に行くと、それ以上のことには警察は介入しないとのことだった。車の損傷に
ついての損害賠償は自分でしなければならなかった。

自動車修理会社に見積もってもらうと、修理代金は37、080円ということだった。

また、警察では、那目川塗男という相手方の名前と住所、それに電話番号を教えてくれた。
左近寺は早速、バンバーの修理代金を那目川に電話で請求した。

しかし、那目川は警察から呼出を受け、厳重に注意を受けているので、素直ではなく、
「おまえのせいで、警察に呼ばれ注意されたのだ」

などと、左近寺に反抗的な態度を示した。

左近寺も負けずに強い口調で言うと、那目川は折れ支払うと答えるようになった。
しかし、電話では支払うと言っておきながら、少しも支払うようすは見せなかった。

最後には、電話にも出なくなった。

そこで、左近寺は彼の態度に憤慨し、修理代金37、080円を請求するための裁判を申立てる
つもりで、裁判所に出向いた。

この世の中で、3万円程度の金額で裁判を提起する人はいるであろうか。弁護士に依頼すれば、
その費用だけでも3万円以上は請求されることになる。

裁判所に尋ねてみると、3万円程度の金額でも裁判を提起する人は、なかにはいるという。左近寺は
全額の満足を得られなくてもよいから、訴えてみるだけ訴えてみようという気持ちになっていた。

裁判所では、金額もたいして多くないので、まず調停を申立てることを薦めた。

そこで、裁判も調停も同じようなものだと考えた左近寺は、調停を申立てることにした。調停においては、
相手方の住所のある裁判所が管轄を有するので、網引簡易裁判所に申立てた。

本来、司法書士など専門家が作成すべき申立書を、自分で作成した。

その他の必要書類として、交通事故証明書と見積書を準備した。調停費用は、請求者の負担なので、
自分の費用で切手や印紙を買って貼り付けた。

裁判所を通じて、那目川に対して、期日に出頭するよう呼出状を送達した。調停期日は、書記官が
左近寺の都合のよい日を聞いて定めた。

第1回目の呼出状を書留で送達したが、那目川は出頭しなかった。
調停委員と左近寺は、調停室で1時間以上待っていた。

左近寺は、
「すぐにでも裁判を提起したい」
と、申し出たが、調停委員が呼出状をもう一度送達したらどうかと薦めたので、第2回目の呼出状を
送達することにした。

2回に渡って呼出状を送達したが、那目川は2回とも出頭しなかった。

法律では、不出頭に対する制裁として5万円以下の過料に処す規定があるが、実際には
ほとんど執行されていない。

そこで、調停を担当していた裁判官は、民事調停法17条により調停に代わる決定を下した。

その規定によれば、裁判所は、調停が成立する見込みのない場合、金銭の支払を命ずる決定を
下すことができる。

裁判官は、
「相手方は金がなさそうだから、3万円ちょうどにまけて、さらにそれを分割払いにしたらどうか」
と薦めた。

また、この見積書では自動車が特定できないから、請求書か領収書を提出するように言った。

しかし、車両番号、車種、修理個所や修理代金が書かれているので自動車が特定できるのでは
ないかと、左近寺が言うと、裁判官は納得し、この見積書に基いて17条による決定を下した。

この決定は、2週間を経過すると裁判上の和解と同じ効力があり、債務名義となる。そして、
それに執行文を付与すると、執行力を有する債務名義として強制執行ができる。

民事調停法17条による決定は、めったに出さない決定である。調停委員の一人が左近寺に、
「左近寺さん、裁判官に感謝しなさいよ」 と言った意味が後になってわかった。

17条決定に基づく強制執行は、執行官室が行うというので、左近寺はそこに出向いた。彼は
1階の執行官室と表示が出ている部屋に入った。そこは、動産執行の部屋だった。

差押えは動産に赤札を貼ることによって行われるが、債務者に対する心理的効果しかない。
また、動産執行は、競売にかけてもわずかな配当にしかならない。

今回は、ジャガーという信販会社が先順位で、那目川の動産に対して競売手続を申立てていた。

那目川は、金銭的にルーズな人で信販会社から融資を受けては、その返済ができず、強制執行を
受けるということを繰り返していた。

ジャガーの金額は約60万円、左近寺の金額は3万円であり、 他に差押さえるべき動産が
なかったので、この比率で競売代金を按分比例することになる。

「あなたの取り分は、ないかもしれませんね」
と、執行官は言う。

しかし、左近寺は最後まで手続を進める気持ちから、当事者目録と請求金額の計算書を作成した。
執行費用は、前納しなければならないので、予め納めた。

執行場所に立ち会うこともできるといわれたが、執行官にすべて任せるつもりだったので、左近寺の
立ち会いなしに相手方の動産が競り売りにかけられた。その結果、那目川の家具などが約10万円で
売却された。

数日後、執行官室から通知書が送達され、ジャガーに対する配当金が約93、000円、左近寺に
対する配当金が約7、000円ということであった。

この金額は印紙代や切手代、執行費用などを差し引くと、ほとんど残金がでない額であった。

請求金額のうちで配当を受けなかった部分について、さらに執行できると言われたが、不誠実な
相手方に対してこれ以上執行しても意味がないと考え、その部分に対する執行は放棄した。

つまり、左近寺はこの動産執行からほとんど金銭的利益を得なかったことになる。
では、この調停は申立てただけ無駄だったのであろうか。

左近寺はそうは思わない。
金銭では買えない貴重な体験であった。

調停における管轄や、相手方が欠席した場合の措置など身をもって憶えることのできた、司法書士に
なる前の貴重な体験だったのである。