物語2:雨の中の出会い

激しい雨の降りしきる中、左近寺勲はJR線の網引駅で降りた。紀江という女性に会うためである。

彼は雨の中、紀江の住所を目指して歩き出した。アスファルトの道路の上には、大きな水溜まりが
いくつもできている。

網引の町に来るのは、もちろん初めてである。彼は静かな住宅街の細い路地を、左に曲がり右に折れた。
ズボンのすそが雨で濡れはじめた。雨はさらに強く降り始めた。彼はいらだちを感じた。

人影のない住宅街を雨が濡らす。その中に一人左近寺は激しい雨に打たれながら、紀江の住所を
捜してさまよっている。

一年半前まで柚木紀江と左近寺勲は、交際をしていた。

ところが、二年前、左近寺の車が事故を起こした。右折しようとした対向車に衝突したのである。

彼は、軽い全身打撲傷と診断された。相手方の車に乗っていたのは、宮本真由美という二十歳の
女性であり、彼女は全治二ヶ月を要する右足骨折という重傷を負った。

事故の原因は、相手方である宮本真由美の前方不注意による無理な右折だった。

左近寺は道義上、入院した真由美を見舞いに行った。真由美は自分に事故の原因があることを
意識しているせいか、暖かく彼を迎えた。二回目の見舞いのときは、紀江も左近寺といっしょに病院に行った。

「ありがとう、だいぶ良くなってきたわ」
真由美は、一度見舞いに行ったことがある左近寺に、親しく話しかけた。

それからだった。紀江の方から、突然、交際を断ってきた。その理由は、紀江が真由美と左近寺の仲を
邪推したためだった。左近寺は真由美に対しては何の感情も持っていなかった。

しかし、彼女は信じなかった。その後、交際が途切れ、紀江という名前も左近寺の記憶から薄らいでいった。

ところが、一週間前左近寺のもとに、紀江から一枚のハガキが届いた。住所はその後変わったらしく、
ハガキには網引町の番地が書かれてあった。

文面は、阿寒湖畔で友人とキャンプを楽しんでいる、という内容だった。

左近寺は当初、放っておいたが、二日、三日経つうちに紀江の真意を確かめようという気持ちになってきた。
彼の心の中に紀江に対する未練がまだあったからである。

電話では、紀江の真意は確かめられない。直接会って話すのが最もよい方法だと思った。

その週の次の日曜日、外はあいにくの雨だった。

紀江のアパートは、JR線の線路際にあった。左近寺は、その建物が紀江のアパートなのか確認するため、
道路脇の郵便受けに近づいた。そこに住人の名前が書いてあった。

彼はそこに書かれてある住人の名前を見ようとした。激しい雨が降っていて、外は薄暗い。住人の名前を
確認するには、顔をかなり郵便受けに近づけなければならなかった。

激しい雨の降る音に混じって、ときどき電車の通過する音が聞こえる。彼はそれらの音を遠く聞きながら、
郵便受けに書かれてある住人の名前を確認した。

網引町横池1234番地 高下龍一・紀江

郵便受けにはこう書かれてあった。確かにそこは紀江のアパートだった。しかし、そこには、高下姓に
変わった紀江の名前が書かれてあった。

左近寺は郵便受けのそばから離れた。半分開いた窓から部屋の様子が見える。暖かい色のカーテンが
下がっている。

そして、ちらっと女性の姿が見えた。紀江に違いない。耳を澄ますと、ときどき若い男の低い声も聞こえる。
彼には、楽しそうな二人の様子が目に見えるようだった。

左近寺は、紀江に会って真意を確かめることを完全にあきらめていた。紀江は今幸せそうに、若い男と
語らっている。

その幸せを彼が入って行ってこわすことはできない。ハガキを出したのも単なる気まぐれだったのであろう。 そう考えると、身を引くしかなかった。

雨は相変わらず強く降っている。激しい雨が包む静かな住宅街を一台の車が、道路に溜まった水を
はねとばしながら通った。車のはねたしぶきがズボンを濡らした。

しかし、左近寺は憤慨する気にはなれなかった。彼は、いつのまにか紀江に対する未練がしだいに
消えていくのを感じていた。そして、心の中に空白ができたのを覚えた。

左近寺は静かな住宅街を濡らす雨の音を聞きながら、網引駅に向かって引き返した。しばらく歩くと
前から来た人物にぶつかりそうになった。前かがみに傘を差しているので、前がよく見えなかった。

「あら、お久しぶりね」
前から来た女性は、声をあげた。傘をあげてその女性を見た。そこには、あの事故のときの宮本真由美が、
微笑みながら彼を見つめて立っていた。

このとき、彼は激しい雨が止み、晴れ間が広がっていくのを心の中で感じた。