事件1:生前相続

ある日、事務所に来客があった。
司法書士の左近寺勲は法務局での用事を早めに切り上げ、早々に事務所に戻ってみた。

すると、金縁のめがねをかけ、あごにひげをはやした左近寺と同年輩ぐらいのやせた男が、
目をぎょろぎょろとさせながら立っていた。

早く戻って来なかったことに憤慨しているのだな、左近寺はと思い下手に出ながら、
相手の様子をうかがった。

すると、男は目をぎょろつかせながら、

「……土地の名義を変えてもらいたい」
と、やっと、口を開いた。

「一口に名義を変えると言っても、その原因が売買とか、贈与とか、相続とかいろいろありますが……」
左近寺がそう言うと、

「相続だ」
男は、即座に答えた。

相続の登記の申請は、戸籍謄本などをたくさん準備しなければならないので、
やっかいな事件になりそうだな、と思いながら、

「相続ですか。それじゃ、被相続人の方はいつ亡くなったんですか」
と、聞いてみた。

すると、男の口から意外な言葉が返ってきた。

「いや、まだ生きている」

「えっ」
左近寺は、思わず絶句した。

「相続の登記は、被相続人の方が亡くならないとできませんが……」
左近寺がさらに言うと、

「生前相続だ」
男は、平然と答えた。

その返事に、左近寺が言葉を失っていると、男は別の意外なことを言い出した。
その男は左近寺の中学時代の同級生だという。

左近寺の住んでいる江須市に、父親の名前が大山新二で、その息子の名前が
大山秋夫という家がある。その男は、その家の息子の大山秋夫だった。

「同級生であるおまえが司法書士をやっていると聞いたので、
一番信頼できると思ったんで、おまえに頼みに来たんだ」

そう言って、大山秋夫はなつかしそうに左近寺の顔を見つめた。

その大山が左近寺に依頼した事件の内容は、次のようなものだった。

彼のうちは、三つの土地と建物一棟を所有しており、相続人は秋夫を含めて三人いるが、
父親の寿命が長くないため、父親の生きているうちに、それらの不動産の名義を長男である
秋夫一人の名義にしたい。

それにはどのような方法があるのか。素人にはわからないから、司法書士である左近寺に
聞きに来たのである。

左近寺はその大山秋夫の依頼を受けながら、彼の言う“生前相続”の登記の仕方を、
なんとか考えだそうとした。

「この案件については、土地などの不動産に関しては大山さん一人に相続させ、
現金をほかの相続人に相続させるという公正証書の遺言書を作るが、一番いいと思います」

数日後、再び事務所を訪れた大山秋夫に、左近寺はそう告げた。

「贈与を原因として名義を変えると、贈与税が非常に多くかかります。また、大山新二さんは
高齢であるので、毎年少しずつ贈与するという方法も採りにくいと思います。

亡くなることを条件として名義を変える方法は、遺贈とか死因贈与とかがありますが、
それらを原因とすると、受贈者の権利取得が不安定ですし、農地が含まれていますので
農地法の許可を得る必要がでてきます。

一番いいと思われている公正証書による遺言も撤回されるおそれはありますが、
農地については許可書が不要ですので、手続が非常に簡単です」

左近寺の説明に、大山秋夫はちょっと考えていたが、

「ふうん、それじゃ、公正証書で不動産に関してはおれがその全部を相続し、ほかの相続人は
現金を取得するという遺言書を作ると、父親が死んだとき、ほかの相続人はなにも文句がいえなくなるんだな」

「そうです。ほかの相続人は遺留分が侵害されない限り、何も文句がいえなくなります」

「それで、父親が死んだとき、おれ一人ですぐに登記ができるんだな」

「ええ、できます。不動産に関しての相続人は大山さん一人だけですので、
自分一人で相続を原因として所有権移転の登記ができます」

「それじゃ、公正証書ってやつでやってもらおう。それで、その公正証書っていうのはどこで作るんだ」

「江須市に公証役場がありますから、そこに遺言者と証人の二人が出向いて作成するのが原則です」

「弱ったな。今、おれの父親、身体の具合が悪いんだ」

「それだったら、公証人が遺言者の元に出向くという方法もあります。また、話すことが要件と
されているので、身体の具合が悪くても話さえできれば大丈夫です」

そのように、左近寺が説明すると、

「それじゃ、父親の具合がいいときに自宅で遺言書を作ることにするよ。公証人を呼ぶ手続は
全部おまえに任せるよ」

そう言うと、大山秋夫は安心したように笑みを浮かべた。

後日、公証人が大山秋夫の自宅に出向いて、父親である大山新二の公正証書による遺言書を作成し、
左近寺とその事務員でもある妻の真由美が証人として立ち会い、遺言書に署名押印した。

公正証書による遺言書を作成し終わってから、大山秋夫は左近寺の顔を見ながら、しみじみ言った。

「やっぱり、同級生っていうのはいいもんだな」