事件4:最大の危機

不動産の取引に立会うというのは、司法書士がその場で、所有権移転に必要な書類を確認して、
「これで、所有権移転に必要な書類は、全部そろいました。では、決済をして下さい」
ということで、決済が行われる。

左近寺が担当した今回の取引の場合も、所有権移転に必要な書類を確認して、
「これで必要な書類は、全部そろいました。決済して大丈夫です」
ということで、決済が行われた。

そして、その日、左近寺は登記申請をした。

その翌日、左近寺の出した申請が補正になっている。

どうして、補正なんだろう。
と、思って登記官に聞いてみると、所有権移転に関する権利証が2分の1しかないという。

そのときの取引は、土地と建物の売買だった。
土地の権利証はそろっていたが、建物の権利証が2分の1しかなかった。

すなわち、建物について前の所有者、垣田林郎2分の1、垣田おつ江2分の1の夫婦の保存登記が
1番でなされている。

2番で、妻が亡くなり、垣田林郎が相続によって彼女の持分を取得し、垣田おつ江の持分全部移転の
登記がなされている。

その結果、垣田林郎の単独所有になっているわけだ。

このときの、垣田林郎の建物の権利証はどれかというと、2番の垣田おつ江持分を相続によって
取得したときの権利証と、1番で自分の持分を取得したときの権利証である。
この2つの権利証を合わせて、はじめて建物の権利証となるわけだ。

しかし、左近寺は、立会の場で、2番で垣田おつ江持分を相続によって取得したときの権利証を
確認しただけで、
「これで、必要な書類は全部そろいました。決済をして下さい」
と言ってしまったのだ。

そして、実際、決済が行われた。

しかし、権利証は相続で取得した2分の1しかなく、自分の持分を1番で取得したときの権利証がない。
これでは、所有権移転の登記ができない。

左近寺は、あせった。

当然、売主の垣田林郎に残りの2分の1の権利証を探してくれるように、不動産業者のクールキャットの
社長、猫山三郎に電話をかけた。

すぐに、猫山三郎から電話があった。

「売主の垣田林郎は、今パチンコにいってるんだって。パチンコから帰ってきたら探す、て言っているよ」

もう、売買代金を手に入れているので、垣田林郎は真剣に探そうとしない。

「何を言ってるんですか。今すぐ探して欲しいんです」
左近寺は、電話口で叫んだ。

その日は、何の連絡もなく過ぎていった。

翌日、左近寺はまた、クールキャットの猫山三毛郎に電話をかけた。

すると、
「売主の垣田林郎は、引っ越したばかりで、家の中がゴタゴタしているんで、権利証がどこにあるか
わかんないんだって」

左近寺は、その言葉を聞いて愕然とした。

そして、権利証が見つかる可能性は少ないな、と直感した。

権利証が見つからない場合は、本人限定受取郵便か本人確認情報で申請することになる。 

本人確認情報というのは、司法書士が売主の垣田者と面接して作製するというものであり、
本件では垣田は引っ越してしまって、これからと会う可能性もないので作ることは不可能に近い。

では、本人限定受取郵便で申請するとなると、登記所から売主の垣田のところに通知が行って、
垣田からの申出があったときに登記手続が再開される。

通知も登記簿上の垣田の住所にされるので、引越しをしてしまった垣田に届くかどうかわからない。

もし転居届を郵便局に出していて、垣田に届いたとしても、垣田が2週間以内に申出をしてくれるか
わからない。

もし申出がない場合は、建物の2分の1の所有権の移転が不可能になる。
そのようになったら、垣田と共有になるのか。

支払ってしまった建物の代金の半分は、どう返してもらえばよいのだろうか。
返してもらえなかった場合は、損害賠償なんだろうか。

司法書士は、どう責任を負えばよいのだろうか。
左近寺は、もう目の前が真っ暗になった。

もう本当に絶望的だった。
もうどうしていいのか、わからなくなってしまった。

何も出来ないで時間が過ぎていく、という状態だ。
1秒1秒がほんとに長く感じて、食事の味もわからないくらいだった。

耳も遠くなって、人の話し声もよく聞き取れないほどだ。
事務所で電話が鳴っても、遠くで鳴っているような気がする。

そのときも、電話がかかってきた。
わずらわしいな、この大事なときに、と思いながら、受話器を取った。

「もしもし、もしもし」
頭がボーとしていてよく聞き取れない。

「もしもし、もしもし」
さらに言うと、相手の声がかすかに聞こえる。

「もしもし、猫山ですが」
猫山というのは、確か不動産業者の人の名前だ。

「もしもし、猫山ですが、あったんです」

「何があったんですか」
左近寺は、思わず聞き返した。

「権利証があったんです」
左近寺は、その言葉を聞いて、天にも昇るような気持ちだった。

よかった、これで救われた。
司法書士人生、最大の危機から脱却できたと思った。

さっそく、左近寺は権利証を取りに行って、補正をした。
もし、このとき、権利証が出て来なかったらどうなっていただろうか。

今、思うとぞっとする。
司法書士はいろいろな事件にぶつかる。

どのように解決してよいかわからない事件も、たくさんある。

本件のような場合、権利証が出て来なかったら、どのように解決したらよいのかは、将来のときの
ための課題にしておきたい。