事件8:新人時代

その1

左近寺勲が司法書士事務所を開業して2、3ヶ月した頃、オレンジ信用金庫から抵当権を
抹消してほしい旨の依頼があった。

抹消書類を取りに行くと、融資担当の小野寺から、
「この物件は、設定者の住所が変わっているかもしれないが、単なる土地の名称変更にすぎない。
費用がかかるので、住所の変更の登記をしないで抹消の登記をしてもらいたい」

と、言われた。

ふつう、住所が変更になっていれば、名義人の住所の変更をしなければ担保権を抹消できないが、
単なる名称だけが変更したときには、地番まで変わっていないので、名義人の住所は変更された
ものとみなされる。

したがって、この場合は名義人の住所を変更しないで抹消できるわけである。
左近寺は、このときも単に土地の名称だけが変更になったものだと思って、書類を受け取ってきた。
そして、確認する意味で住民票をとって登記事項証明書の住所と比べてみた。

すると、地番が変わっている!?

小野寺は、地番は変わっていないと言っていたので、おかしいなと思いながら、さらに戸籍の
付票を取ってみると、中間に土地の改良事業による変更がなされていた。

それによって、地番まで変わっていたのだ。
地番まで変わっていると、やはり名義人の住所を変更しないと抵当権の抹消ができない。

そこで、左近寺は名義人の住所を変更してから抵当権の抹消をして、オレンジ信用金庫の
小野寺のところに書類を持っていった。

すると、小野寺は、
「しょうがないなあ、あれほど住所の変更はするな、といったのに」

といって、左近寺からふんだくるように書類を取った。

それは、やはり開業して間もないから、名義人の住所を変更しなければ抵当権の抹消が
できなかったんだという、軽蔑したような態度だった。

左近寺は、土地の改良事業によって地番まで変更になっているんだから、名義人の住所を
変更しなければ担保権は抹消できないケースなんだと説明したが、少しも納得してくれない。

左近寺は困ったが、これからの付き合いもあるので、しかたなく翌日、現金30万円を持っていって、
これを定期預金に積むから許して下さいと言って、謝りにいった。

すると、きのうまで機嫌の悪かった小野寺が、急にニコニコして
「これは、ありがとうございます。先生のところにこれから、うんと仕事をやりますので」
などという。

本当に、金融機関は現金で勝手なものだ。

受験勉強中は、名義人の住所変更の登記は、あまり重要な登記だと思っていなかったが、実務になると
これほどやっかいな登記はない。

名義人の住所の変更をするとその費用がかかると文句をいわれ、名義人の住所の変更をしないと
取下げになる。

左近寺は、いまでも名義人の住所の変更で悩んでいる。

その2

左近寺勲が司法書士事務所を開業して4ヶ月ほど経った頃、用事があって法務局に行くと、登記を
担当している武本梅雄という調査官から、

「左近寺さん、昨日申請した根抵当権の申請書、取下げだよ」
と、声をかけられた。

初めての取下げなので、心配になり、
「どうして、取下げなんですか」
と、武本調査官のところに聞きに行った。

すると、武本は申請書を取り出して、

「この申請書の目的は、共同根抵当権の設定となっているけれど、原因証明情報である契約書には、
共同担保という文言が書いてない」
という。

「共同根抵当権には、すべての不動産に債権の全額について執行できる累積式というのと、一つの
不動産で全額の満足を受ければ、ほかの不動産には執行できない普通のものとがある。
しかし、普通の根抵当権を示す“共同担保”という文言が書いてないと、どちらの共同根抵当権だかわからない」

それでは、共同担保という文字を書き入れればいいのではないかと、左近寺が内心思っていると、
「原因証明情報である契約書は、本来、当事者が作るもんであって、第三者である司法書士が勝手に
書き入れることはできない。だから、これは、申請書の記載と原因証明情報の記載が一致しないので、
取り下げるしかないんだ」

取下げと言われても、左近寺は開業間もないので、取下げる方法も知らなかった。

ただ、呆然として立っていると、武本は、
「どうしても、取り下げないというのか!」

大きな声でどなって、左近寺を統括登記官の和田中浩司ところへ連れて行った。そして、
「こいつが、どうしても取り下げようとしないんです」
と言って、いままでの経過を話した。

統括の和田中はその話を聞き終わると、諭すように、
「いったん、法務局に提出した原因証明情報に司法書士が書き入れることはできないんだ。しかし、
一度取り下げれば、司法書士が書き入れようと誰が書き入れようと、法務局の知ったところではない。
だから、これは取り下げるのが筋道なんだ」

そう言う和田中の言葉に、左近寺も取り下げるしかないな、と思っていると、
「でも、まあ、初めてということもある。今回だけは書き入れてもいいだろう」
と言って、左近寺が書き入れることを許してくれた。

左近寺は、その場で、普通の根抵当権であることを示す“共同担保として”という文字を書き入れると、
和田中とその武本に何度もおじぎをして法務局を後にした。

ちょうど、その時は、お昼近くで他の人は誰もおらず、左近寺は法務局の職員全員の注目の的に
なっていた。

事務所に帰ってから、すぐに左近寺は、以前法務局に務めていて、今は妻である真由美に
聞いてみた。

すると、真由美は、
「そのくらいのことは、その場で、みんな補助者が書き入れてますよ」
という。

実務では、共同根抵当権の場合、累積式というのはほとんどなく、全部と言っていいほど普通の
根抵当権なので、補助者がみんなその場で書き入れているという。

左近寺は、唖然とした。
左近寺の場合も、単なる書き入れるという補正ですんだわけだ。

すると、あの、取り下げろ、と言った武本の態度はなんだったんだろう。
法律に従った正しい手続を、左近寺に教えようとしたんだろうか。それとも、単なる嫌がらせだったんだろうか。